MOROHAのライブを観て感じたジャンルを超えた魂の話

コロナ騒動で全国のライブや公演が中止になりだす少し前、僕はMOROHAのライブを観た。

それは今まで行ったどのライブよりも異質で、どのライブよりも鳥肌が立つ瞬間を感じたものだった。

小雨が降る中、はじめて観たMOROHAのライブ。

今回はその日、僕らに起こったまさに事件と呼ぶにふさわしい夜の話をしようと思う。

食い入るように見た画面の中のアーティスト

同僚との世間話で音楽の話になった。

その人は家族で野外フェスに出かけるような人で、いろいろなアーティストを僕に教えてくれた。

僕は僕で、まぁまぁ詳しいという自負もあるものだから、その人が口に出すアーティストの知っている情報を話したりして、このコミュニケーションを成功させようとしていた。

最後に彼は「MOROHA」は知っていますか?と訪ねてきた。

当然、名前は知っていたので知っていると答えた。

だがそれは、名前を知っているだけで、曲や人、その世界観なんて知る由もなく、ただ知っているというだけに過ぎない。それは本当に知っていることにはならないなぁと思いながら、ある種の罪悪感を感じながら僕は答えた。

あれはやばいですよね。

その人はフェスで一度ライブを観たことがあるという。

異質というか、別物ですよあれは。とにかくやばい。

化け物を形容するようなその物言いを僕は少しオーバーだなぁと思いながら相槌を打つ。

夜勤中、少し時間が空いたのでYoutubeで検索をした。

忘れもしない四文銭を聴いた。その人の言っていたことがすぐにわかった。

これはやばい。

心を鷲掴みにされるのではない。心をぶん殴られる感覚。

そしてその痛みはすべて身に覚えのある痛みで、自分自身に課した宿命に対する誇示のための痛みであることは知っていた。

生で聴きたい。ライブに行ってみたい。

すぐにそう思ったアーティストだった。

静寂の中の二つの動

僕は昔、芝居を見に行ったことがある。

有名な役者など出ない、言わばインディーズの劇団の芝居だ。

インプットの時期にはたくさんのものに触れて吸収したい衝動に駆られるものだから経験したことのないものには無心で飛びついていた。

とてもいい芝居で、面白かった。

同時に、その芝居を行うホールの客席と役者たちとの距離感、空気感それらが非日常の中でもさらに異質な緊張感を孕んだものだった記憶がある。

役者もそうだが、客も少なからず強張る。そんな空間。

MOROHAのライブはまさにそれに近いものがあった。

僕はロックバンドのライブなんかは結構な数行っていたりする。有名、無名、なんでもだ。ライブハウスのあの何かが起こりそうな、あの空気が好きだ。

だからMOROHAのようなジャンルのアーティストのライブははじめてだし、心をぶん殴られに来ているわけだから興奮や高揚とは別の種類のドキドキに支配されて来たのだ。

静まり返る客席。SEもなく無音で出てくる二人。

あいさつもなく一曲目がはじまる。

一瞬にして空気が変わった。客がこの二人にくぎ付けになっている。僕もそうだ。目が離せない。目が離せないまま、ライブは終わった。

言葉に出来ない感情に名前を与えるアーティスト

鬱憤がたまる。金を使ってそれらを消化する。

ストレスがたまる。人に愚痴って当たってそれらを消化する。

そうしてできた葛藤に、そしてそこから這い上がる思考回路に、いつも決して言葉にできない、言葉にならない感情を抱いていた。

自分自身に対する思考が及ぶ正解への軌跡、そこにたどり着くまでの反省と後悔。それら全てが目まぐるしく変わり替わって、巡り巡ってそしてそのうちそうしてきたことさえも忘れてしまう。

このもどかしい感情の話に名前をつけてくれたのはMOROHAだった。

アフロが書く歌詞には共感しかない。自己承認。すなわち自分が自分に言いたいことを言葉にしてくれている感覚。

これは叱咤激励なんかじゃない。一人にしないよなんて生易しいものでもない。一人でもやれ。そういう道を選びたかったんだろ。そういう歌だ。

そういう歌に僕は心を震わせてきたんだ。そういう歌が僕は好きなんだ。

それとは別に、単純にたった2時間程度のライブで人の心をこうもぶん殴れるアーティストってやっぱすげえな、と思った夜だった。