人によって定義そのものが違い、人によって受け取り方も違うあやふやなもの。
人に対して与えてあげられる人でありたいと願い、人に与えてもらいたいと願う都合のいいもの。
人に向けるそれと、人に向けられるそれの結合地点。
本当の優しさとは何か。
本当の優しさとは
誰にでも他人に向けて何かをしてあげたことはあると思う。
同じように他人に何かをしてもらったこともあると思う。
それを優しさと呼べるのかどうか。
ときに僕らは自分自身で解決しなくちゃならない幾つかの事柄を他人の「優しさ」にかまけて逃げようとする。
自分の弱さを棚に上げて見当違いの「優しさ」を振りかざす他人を攻撃する。
本当のところは、そんなことする自分を正しいと言って欲しいだけなのに。そしてそれも分かっているのに。
他人の「優しさ」はいつだってそれを誤魔化そうとする。
しかしどうだ?
それは果たして本当の「優しさ」なのだろうか。
他人を気遣うことも、励ますことも、与えることも、「優しさ」ではないのではないだろうか。
今宵はそんなお話です。
与えることは優しさではない
人に何かを与えることは「優しさ」ではなく「親切」だ。
無条件で与えられた「それ」に果たして与えられた人は「ため」になっているのだろうか。
自分で掴み、自分で得、自分で喜びを感じること。
その過程を「与える」という行為で破壊してしまうのだから、もはやそれは「優しさ」ではない。
そして「与える側」もその行為を「優しさ」だと思って行動するとき、両者の間には交わることのない線が出来上がる。
「優しさ」というのは自分で掴み、自分で得、自分で喜びを感じる過程を人に「与える」ものだ。
励ますことは優しさではない
そばにいることは「優しさ」ではない。
そばにいて自分の存在で相手の悲しみが癒えることはない。
相手を励ますことも同情してあげることも「優しさ」ではない。
無闇に放った言葉の中に居心地のいい場所を見つけ、そこに逃げ込んでしまったらその悲しみに立ち向かうことが出来なくなる。
どうすれば悲しみをやっつけられるか。
行動や姿勢で示すことが本当の「優しさ」だ。
そして、闘うその姿を遠い場所から見守ってあげること。
うまくできなかったなら手を差し伸べてあげること。
ときに相手を突き放し、自分で解決しなくちゃならない幾つかの事柄をきちんと自分で解決していけるように、共に闘うこと。
気遣うことは優しさではない
気遣うことは「優しさ」ではなく「親切」だ。
それを「優しさ」だと思ってはいけない。
「優しさ」はときに相手を突き放し、放ったらかし、嫌われたり、その先に存在している。
暗闇に光が射すことで明かりを取り戻すとするのなら、その光を奪ってはいけない。
その光は「優しさ」によってでも、ましてや「親切」によってでも出来上がるものではない。
その光は自分自身の心にある光に気付くことで暗闇を照らす。
他人が発した光で暗闇を照らしたとしても、明るくなるのはほんの一瞬で、朝と夜の関係のように光ばかりいらない日もあるのだから、必要な暗闇まで奪ってはいけないのだ。
自分の光に気付くこと。
それを見守ることが「優しさ」だと思う。
優しさとは
人は孤独である。
孤独であり、その孤独のなかに人の存在を探す。
都合の良い「優しさ」で自分を孤独の中から引っ張り上げてくれる人を探す。
だが、それは「優しさ」ではない。
「優しさ」とは他人との繋がりの果てにあるもの。
他人に孤独を与え、例え消えてしまったとしても世界は回るというそのことを認めて、逞しく生きていくことをお互いの心のなかに映す。
宇宙のなかにポツンといるようで星たちは繋がっているということを気づかせてやること。
自分の力で「生きる」ことを強く望むようにすること。
それを近くで、遠くで、或いは心の中で見守ることが本当の「優しさ」だ。
あとがき
「優しさ」という言葉を20回も使いました。(テヘペロ