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「何もしない」という選択肢の話

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僕は口下手だ。

誰かに何かを伝えようとするとき、それが自分の本音だったり本心だったりするときにはいつだって言葉が出てこない。

出てこないまま終わりにしてしまうと後悔だけが残ることは知っているから必死に絞り出そうとする。

そうして出てくる言葉が自分の中で相手に対して誠実であるという確信があるから、何かの受け売りや誰かの言葉を借りて伝えることは極力したくはない。

今、僕は僕の人生で出会う人との距離感を計りかねている。

誠実がなんだと言っておきながら、最終的に距離感で悩んでいる。そんなお話。

深入りするなと人は言う

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思い返せば、最初に付き合った彼女も、そのまた次も、そしてそのまた次も。

さらには付き合うに至らなかった女性もみんな心に何か問題を抱えていた。

たぶん、そういう人に惹かれるタイプなんだと自分のことは理解している。

ここ最近知り合った女性も自分の力では解決できないほど大きな問題を抱えていた。僕は話を聞く。

話す女性は僕の様子を探るように、怯えながら、だけど誰かに話したい衝動に駆られながらたどたどしく話していく。

それは自分の人生に起こった奇妙なことであったり、とても不幸な出来事であったり、はたまた現在もなお続いている地獄の話であったり。

僕は解決策など提示せずに話を聞く。話を聞きながらその女性の人生を追体験する。

時折、この女性は自分に都合がいいように解釈を捻じ曲げているんだろうなぁなんてことを考えながら、僕に話しはじめるまえに過ごしてきた無数の孤独な夜のことを考えながら話を聞く。

話を聞くと僕はその女性とはまったく面識のない、関わりのない僕の知人に相談をする。

第三者の意見を聞きたくなるからだ。

僕は自分の性格をよく理解している。自分の意見を導き出すとしばらくはそれ一辺倒になってしまう。

そのまえに誰かの考えを聞いて考える材料を貰う。別の角度をもらって、多角的に考える。

何を考えるかのテーマはいつも同じだ。

「どうしたらこの人を救えるか」

下心があるわけでもなく、ましてや自分がいいように見られたいわけでもない。

僕の評価など僕自身としてはどうでもいいと思っている。

ではなぜ救いたいなどとおこがましいことを思うか。本当に苦しんでいる人を見てきたからだ。

そしてその苦しさが痛いほどよくわかる。そういうときに気持ちが分かる、分かってくれようとする人間が一人でもいれば人間は生きていける気がする。

この先の人生がずっと苦しいかと言われればそうではないと思う。僕が出会ったそのタイミング、その瞬間に、その人は苦しい何かを抱えている場合、それを乗り越えられれば、その先は自分の力で何とかやっていけるものだ。

ここで出会うのも何かの縁だろうという気持ちと、その苦しさを何とかしてあげたいという気持ちから僕は出会う人が問題を抱えていると知ってしまうと自分のなかで「何もしない」という選択肢を捨てることにしている。

 

ある日、偶然に知り合った女性から話を聞いた。

彼女の闇は深く、話している最中に涙を流していた。

同じように僕は知人に相談をした。面倒くさそうに「あまり深入りしない方がいい」と彼は言った。

その言葉の言い方、ニュアンスから、僕の性格を読み取り僕の心情を心配しての発言とそういう女性は面倒くさいだけだ、そんな話はもううんざりだという気持ちが読み取れた。

それ以上、僕は彼に何かを言うことを辞めた。

彼の言いたいことや気持ちは理解できる。そういう言葉であったことも分かる。

分かった上で僕は僕の全てを否定された気になる。

みんな殺人者

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話は変わって、個人的に思うことがある。

自殺やいじめや引きこもり。人格障害を患う若い世代。モンスターになる親に食物にされる教師や不祥事を起こす警察。

人間関係に疲れて殺人事件を起こす人、その遺族が精神を歪めてまた成人する。

そんな負の連鎖で社会は成り立っている。

細かい部分にフォーカスしていけば無数にある誰かが誰かを陥れ、蔑み、傷つけることでこれらは成立しループしている。

一般社会で、会社で学校でグループ内で友達同士でSNS内でこのようなことは日々起こっている。傷つける側はいつだって相手の気持ちなど考えずにやっているから相手がどうなるなんてことを1mmも想像しない。

傷つけられる側はずっと消えない傷やトラウマを抱え、人に怯え生きていく。ときに疲れてしまって命を断つ人も出てくるだろう。ときに逆上して暴力に走る人も出てくるだろう。

傷つける側は無意識でしているのだから自分たちが加害者だという意識なんてこれっぽっちもない。本当は殺人者であり脅迫者であり、クソ野郎なのに、だ。

そして一番皮肉なことにその傷つける側に僕らはみんな漏れなく所属しているということ。

誰かが不意に言った冗談が誰かにとって死ぬほど嫌なことだったり、誰かが面白いと思っていじったその人の特徴が実は死ぬほど嫌なことだったり。

何がきっかけになるかは誰もわからない。

その傷は誰が癒すのか

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そんなことを考えていて、「深入りするな」と言われると自分に対してもそうだが、「自分さえよければそれでいいのか」と聞きたくなる。

もちろん、そんなことまで他人のことを考える必要がない、とか中途半端に関わってもその人のためによくない、とか言いたいことは頭では理解できる。

だけど、それは3/11に起きたあの大きい地震を前に偽善者にすらなれず、安全なところからへらへら笑っていたクソ野郎と何も変わっていない気がした。

 

ちょうど伊坂幸太郎の小説「砂漠」にそんな話がある。

捨て猫を保護しようかどうか迷っている人がいた。この猫を拾っても自分が住むアパートでは飼えないし、保健所に連れて行っても殺処分が関の山だ。

だから結局、何もしないということになる。

しかし、その人の同級生は何も考えずに捨て猫を拾う。拾ったあとでどうするかを考える。アパートの大家さんに飼ってもいいか必死に頼み込んだり、それが無理だとなると飼える人を必死になって探した。

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この話から僕はそういう人でありたいと思うようになった。

うだうだ考えていた人とのことについて「角度」をもらった気になった。

しかし現実は僕みたいなちっぽけな人間にすら「そうさせない」ために動いている。

だとすると傷ついてばかりじゃないか。

誰も浮かばれなくて、誰も救われないじゃないか。

 

そんなことをふとした時に思う。絶望する。本当にたまにこのまま死んでしまってもいいかなと思えてくる。

だから探す

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結局、僕だって傷ついている。そのことを誰かに認めてほしいし、頑張ったねと言って欲しかった。

きっとみんなそうなんだろうなと最近は思う。

みんな自分の考えに自信がなくて、考え続けるには余裕もなくて、他人に構っていたら自分が振り落とされてしまうから、だから見て見ぬふりをして、その汚さを認めることが卑怯ではない証拠だとか都合がいい解釈をして生きている。

他人に興味がないのではなく、興味がないフリをしているだけなんだ。

みんな誰かの目が気になって、みんな誰かに認められたくて、構って欲しくて、愛されたいんだ。

辛い思いをしてきた人はその表現方法が変わっているだけで本質は変わらない。

僕はいつもその部分を見つけてしまうから、なんとかして心の隙間を埋めてあげたいと思ってしまう。

そう思ってしまう僕も結局はみんなと同じ。だけどそれに抗うように生きていたい。

 

「深入りするな」と言った彼に「うるせえよクソ野郎」と言うことで何とか自分を保ってる。

 

 

 

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