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非定型うつの本当の浸食部分について

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今から一年ほど前、ある女性から相談を受けた。

彼女はパニック障害を患い、同時に非定型うつ(新型うつと呼ばれる場合もある)を発症させ、僕に相談をするまで5年間も闘病生活を続けていた。

パニックについては大分回復し、予期不安(次はいつパニックになるだろうと不安になってしまうもの)も収まりつつある。

飲んでいる薬も減薬スケジュールを主治医と組み、カウンセリング等で本人の容態を見ながら進めていくという治療の過程を経て、今現在は苦しいながらも働いている。

しかし、彼女本人は自分の病状、とくに非定型うつについてはまったくといっていいほど理解していない。

患者の病状や診断名、その病気の種類を、こと精神疾病においては本人がきちんと把握する必要性の議論はたびたび行われているが、少なくとも彼女は自分が「うつ」だということしか知らないし、そもそも「うつ」といわゆる「新型うつ」がどう違うのかも恐らくは理解していない。

このような状態では間違った認識を生み、自分自身で謂れのない思い込みへと発展し、考え方を捻じ曲げてしまいかねないと僕は思った。

そこで本人にきちんと一から説明し、あなたはこういう病気だからという言い方ではなく、この病気はこういう病気で、といった具合に断定はせずとも一緒に病状の行方を考える時間を設けた。

そこから一年。

やはり、相手は女性なので気持ちの浮き沈み、変化、若さゆえの甘さなども絡み、一筋縄ではいかない日々が続いたが、僕なりに結論を出せたように思う。

今回はそんなお話。

非定型うつの人にありがちな対人関係の癖

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「他人に興味がない」

と口癖のように言う。彼女は他人と会話をするとき自分の話をほとんどしない。

たいていはいくつかのパターンで区切られた相槌を使いまわして会話を終える。

そこでセットで使われるのが「愛想笑い」である。

これが悪いとは言わない。彼女なりの処世術であり、妙な軋轢を生まないように社会とうまくやっていくために身に着けたものだからだ。

「他人に期待たくない」

という気持ちから派生し、「興味がない」という無感情に行き着いたと話していたのは出会ってすぐのときだ。

同じ気持ちで今もいると最近も話してくれた。

つまり、彼女のなかでこの一年、どんな人と出会い、どんな会話をし、どんな思い出が自分の内部に蓄えられ、それが一ミリも影響を与えていないことを自らが自覚、そして拒否しているようにも見えた。

「めんどくさい」

と言ってしまえばそれだけの関係なのかもしれない。彼女にとって家族、恋人、友人以外は人形であり、ロボットであり、二次元のものであるといっても過言ではないほど他人に興味を示していないからだ。

とても大きな壁を形成し、その中で自分を他人から隠し、ぶるぶると怯えながら社会でやっていこうと無理やりしている。という言い方をすればとても頑張っているように見えるが、そもそもの原因はここにある。

 

このような人間関係を形成しておきながら、人一倍他人の評価や目線が気になって仕方ない。

目立ちたくはないけれど、いないものとして扱われるのはとても嫌だ。

自分の思い通りにしたいけれど、嫌われたり気まずくなるのも嫌だ。

本音はたぶんここにあります。

 

激しい思い込みによって他人からの攻撃やストレスを無理やり感じないようにする癖がいつの間にかついてしまい、それが当たり前になってしまっている。

そしてそれを前提に「物事を考える」癖がついてしまっている。

本来の非定型うつやパニック障害で苦しむ前の考え方や哲学なんて埋もれてしまって自分では見つけられないところまで来てしまっているのです。

まずはそれを治さないといけない。

まっさらな気持ちで他人と向き合えるように。誠実に向き合えるように。

これが第一歩だと僕は思います。

 

まとめ

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彼女の場合は特にそれが如実に表れていましたが、基本的に「自分、自分、自分、自分、自分」なんです。

自分のことしか考えていません。

これはとらえ方によっては「何が悪いの?」なんて意見も出てきそうですが、自分の行動や言動で相手がどう思うか、傷つけてしまうのか、悲しませてしまうのか、それがほとんどイメージできない。

つまり、「思いやり」が欠落しているのです。

もちろん表面上はいくらでも取り繕うことはできます。しかし本当は他人の痛みにすら興味がないので(もたないようにしているので)考えてすらもいないのが現実です。

楽なほうへ楽なほうへと流されていくことで自分を守ってきたのでしょうが、それでは何も解決されないし、本当の意味で解放されることもないのかもしれません。

ですから、どうか今回書いた症状に当てはまりそうな友人、家族、恋人がいるという方はその人が間違ったことや偏った考え、心無い行動をするときにはきちんと叱ってあげてください。

それが回復への正しいルートだと僕はこの一年、観察してきて思いました。

 

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