僕の親父は統合失調症だった。
発覚当時は中学生のときで、母は僕たち兄弟には言わないで一人で親父の病院や世話をしていた。
離婚に至るまで本当に多くの問題を抱えていた。
親父が亡くなって何年か経ち、僕は主に統合失調症の方が訪れるという某NPO団体のボランティア活動に参加することになる。
そのときに感じ、またその時に出会った物語の話。
とにかく何かがしたかった
紛いなりにも当時の僕は、これまた当時付き合っていた境界性人格障害の彼女との破局を迎えた直後だった。
精神疾病についての知識と、無力な自分が睨めっこを続けていた。
自分には何もできないと知りつつ、自分にしかできない何かがある気がしていた。
カウンセリングの書籍を読みあさり、精神疾病についての専門書を読みあさり、彼女や親父が対峙し続けた病について調べ続けた。
調べることでその時点ではもう終わった話だ。
何がどうなるわけでもない。わけでもないが、自分の中に佇む「自分を責め続ける自分」をやっつけるためには「自分を認められる自分」を見つける必要があった。
見つけようとすれば見つからず、友人たちの言葉を参考に思考を巡らせては暗闇に己を叩き落とすという毎日を送っていた。
そんなときだ。
数ある知識や経験談を頭にいくら叩き込んでも何も残らないのは自分自身の心が動いていないからだと思い、ネットでボランティアを検索した。
地元で活動する某NPO団体のページがヒットし、覗いてみると月に一回、座談会を開くというボランティアを行っていた。
すぐに僕は代表の方へメールを送り、参加したい旨を伝えた。
代表の方は快く承諾してくださり、当日の案内を簡単に説明してくれた。
とにかく何かがしたかった。
自分が生きていていい証拠が欲しかった。
大事な人、一人守れなかったクズが生きていていい証拠が欲しかったんだ。
様々な人生
座談会には本当に多くの年齢層でボランティアである聞き手の人、話を聞いてもらいたい精神疾病を抱える人、たくさんの人が来ていた。
ここで各個人を詳しく解説することはしないが、来て早々に机に突っ伏して泣き出すほど不安定な人もいた。
代表の方は優しく声を掛け、紅茶を一人づつに入れ、背中をさすり無言で毛布をかけた。
僕ら聞き手のボランティアは本当に雑談のような形で世間話を中心に話をしていた。
「どこのラーメン屋がおいしい」だとか「どのアイドルがかわいい」とか精神疾病の方もボランティアの方も分け隔てなく話をした。
途中で、誰からともなく自己紹介を改めてする流れになった。
ある人は一流企業の社員で病気を患い、今は回復に向けてリハビリを続けていた。
ある人は若くして精神疾病を患い入退院を繰り返し、自殺未遂を繰り返して今はメタルバンドをやっていた。(どういう経緯かは不明)
ある人は世界へ旅をしていて精神疾病の現状を外国で知り、日本に帰ってきてからこの国の精神医療の遅れに愕然とし、自分にできることを探した結果、まずはボランティアということで参加していた。
ある人は中小企業の社長さんで自分の高校生になる娘と一緒に参加していた。娘さんは鬱病を患っていた。
そして最後に夢を一人づつ話していく。
些細な夢から冗談半分の夢まで。
僕はいろんな人がいろんな状況で戦っている現実にとてつもなく衝撃を受けた。
頭の中でわかっていたことを肌で感じたような感覚だ。
体ごと魂ごと目覚めていくような。
帰りに本屋に寄った。
その日体験したことを自分の一部にするにはもっとたくさんの症例を知りたいし、もっとたくさんの人の人生が知りたいと思った。
必要な物語
その夜、僕は風呂に浸かりながら買った小説をめくっていた。
とある人生、とある人、とある場所に、とある運命。
その他で括っていた他人の人生と繋がった気がした。みんなどこかで戦っている。
「下には下がいる」とよく世間では言うが他人と比べる人生に何の意味があるというのだろうか。
それはどんな不幸を基準にしての「下」なのだろうか。
金がなくても幸せだと言う人もいる。精神疾病を患っても幸せだと笑う人もいる。
誰かと誰かの「上と下」なんてくだらねえな、なんてことを考えていた。
「世の中には自分よりも不幸な人がいる」と考えれば凌げる現実なんてありゃしない。
そう思えばやり過ごせるなんて迷信だ。いつだって僕らはもっと具体的な解決策が欲しくて、もっと圧倒的な感動が欲しい。
きれい事も、卑怯だなんてことも存在しないのが現実だ。
人間臭いとか、正直だからとか、だからなんだという話だ。
もっとシンプルで傷ついている人がいて、それを助けたいと思っている。
それすら先のことを考えなければ、周りのことを考えなければ、自分を優先に考えなければ出来ないような世の中なんて反吐がでる。
湯けむりでふやけてしまった薄い小説はそんな僕の心境を知ってか知らずか、ピンポイントで心を刺す物語を綴る。
気づけば僕は涙をながし続けていた。
薄い小説は端っこがしおれてしまったけれど、心を動かすには十分だった。
キリンやゾウが蠢く動物園の中で僕らはみんなで「一緒に」遠くの街へ行ってみたいと思う。
「行ってみたい」という言葉には「またここに帰ってくる」というニュアンスを含む。
悲しい気持ちと、諦めと、その旅行への期待を遠くの街へ乗せて僕らは出かける準備に取り掛かる。
読み終わると僕はこの本をずっと大事にしようと決めていた。
必要な物語だったんだ。
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