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死にたいと思ったら~自分の問題・自分の話~

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先日、「死にたいと言われたら~」というテーマで二本ほど書きました。

その反響がそこそこあることが嬉しくもあり、悲しくもある今日このごろ。

「じゃあ、てめえはどうなんだ」とふと思ったんだ。

死にたいと思ったら。

思ったらどんな思考経路で脱出する?それとも脱走?それとも離脱?言葉はいろいろあって表現もいろいろあるんだけれど、たぶんみんなそんなこと思いたくて生きてるわけじゃない。

それだけは確かなことだ。

死にたいと思ったら

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まずはじめに、僕は死にたいと思うその気持ち自体は肯定している。

きれいごと抜きで実際に誰でも思うことだもの。つまり、そう思ってしまうこと自体当たり前のことだと思っている。

しかし、世間は否定する。

死にたいと言葉にすればすぐに精神疾病を疑われ、死にたいと思うことを誰かに伝えれば生きることの素晴らしさを押し付けられる。

そんなことはみんなわかってるんだ。

みんな分かっていても、それでも死にたいと思うことを選択しているんだ。

死にたい。

その言葉を自分の中に押しとどめる。

でも、なにか後ろめたさを感じてしまう。

それはなぜだろう?

  • 親に与えてもらった大切な命だから
  • 誰かのおかげで今日も「生かされている」という事実があるから
  • 友達や家族や恋人が悲しむから
  • 自分にはやらなければならない使命があるから
  • 叶えなければならない夢があるから
  • 世の中には自分より不幸な人間がたくさんいるから

誰の頭の中にも平等にこれらの価値観は植えつけられている。

それはこの国の教育がそうなっているから。

非常に素晴らしいと思う。しかし、これらはきれい事だ。

こういう価値観を頭のなかに置きながらもそれを上回る生きづらさ。

親や友達や恋人なんかどうでもいいと思えるぐらいの苦しさ。

死にたいと強く、強く思う人の心のなかはずっとその「苦しさ」と「素晴らしい価値観のきれい事」との間で揺れ続けている。

揺れ続けているから実際に行動に移したりはしない。

揺れ続けているから死ぬほど辛い毎日を送っているとも言える。

死にたいと思ったら。

まずは当たり前のことだと思おう。

自分は確かに今この瞬間、死にたいと思っていると認識しよう。

表と裏

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物事には表と裏がある。

今回のテーマである「死にたい」という気持ちの対義語は「生きたい」だ。

全くの真逆の性質を持つ言葉である。

しかしどうだろう。「死にたい」と思ったとき、「生きたい」という言葉のイメージも過ぎったりしないだろうか。

イメージは過ぎったあとには灰になり、残るのは「死にたい」という残骸のみ。残った残骸を自分の全てだと「錯覚」してはいないだろうか。

死にたい死にたいと強く思っても行動に移せないのは「本当はもっとうまく生きたい。だけど出来ないから・・・」という言葉が隠れてはいないだろうか。

その隠れた「裏」の部分を自身で認識しているかどうか。そいつを知っているかどうかできっと大きく変わってくるはずだ。

君のなかの両極端の表と裏。

「裏」の部分を捕まえて、きちんと存在を知ることは死にたいと思う君にしかできないことなんだ。

うまくできなくったっていい。時間はたくさんあるんだから。

たくさんの自分

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僕は昔から物事を考えるときに脳内でたくさんの自分を創りだすイメージを浮かべる。

マイナスに捉える自分だったり、プラスに捉える自分だったり。

多角的に捉えることで見えてくるのは物事の本質の顔をした全体像だったりする。

今この瞬間、ベッドに顔をうずめて、過去の嫌な出来事を無理やり引っ張り出し、心の傷を引っ掻き回してかさぶたを剥がしては死にたい気持ちを増幅させている君がいるとして、それを少し後ろから眺めている君も同時に存在しているとしたらどんな風に君は君を見るだろうか。

同情するだろうか。

もうやめなよと言うだろうか。

「たかがそんなことで」と笑い飛ばすだろうか。

これらを他人にやられれば君は大いに傷つくだろう。

しかし相手は自分だ。

見栄もプライドも関係ない。君は君自身でしかないからだ。

どんなことを思うのか、想像してほしい。

その想像が例えば君を窮地から救うヒントになるかもしれない。

死について思うこと

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死ねばどうなるかなんて興味はない。

魂がどこに向かうかなんてどうでもいい。

運命がなんだとか、神様がいるかなんて話もいらない。

僕らは今日を生きていて、今この瞬間を生きている。生きているから死にたくもなる。絶望もする。少し這い上がってみて、また現実に叩き落されてしまう。そして再び死にたくなる。

当たり前のループのなかで当たり前に諦めている。当たり前に諦めては当たり前に妥協する。

本当は生きていたいくせに「死にたい」なんて言ってみる。

誰かの気を引きたくて、誰かに構って欲しくて、なにより自分が自分に関心を持てるように。

「死にたい」と言えば自分をわかってもらえる。「死にたい」と言えば自分を認めてもらえる。

そんな「死にたい」という特別な言葉。

 

簡単に言えてしまう言葉だ。

立ち向かってきた証の言葉でもあり、逃げるためだけの言葉にもなる。

サインにもなれば愛の言葉にもなる魔法の言葉。

 

言われた人の気持ちになってみる。

死にたいと言われたなら物凄く心配をする。物凄く激励をする。生きていくことの大切さを説こうとする。

そんなことは分かっているのに、だ。

そうやって必死になってみても一向にこの気持ちが相手に届いている気がしない。

言葉は届かない。

気持ちも心配していたことも、感情も届かない。

届かないと虚しさを覚える。

虚しさを理屈と掛け算して人っ子ひとりも救えない自分に置き換える。

「自分を責める」

「責め続ける」

死にたいと言う人、言われる人の気持ちが交わることはあるのだろうか。

お互いに思いやりを持つことはあるのだろうか。

 

たった一言の「死にたい」があなたと大切な誰かの心の中をめまぐるしく変化させる。

その変化は必要なものなのか。

それは君たちが決めること。

僕自身が決めること。

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