このブログを読んでくれている人たちや、はたまた通りすがりで読んでくれた人などの年齢層を僕は知らない。
知らないが、遠い昔に二十歳を迎えた人も割と最近に二十歳を迎えた人も、ともすればこれから二十歳を迎える人も、何はともあれ大人になった(なる)ときの気持ちなんかを今でも覚えているだろうか。
高齢化が進む昨今の日本の情勢の中でイカレタ事件もあと立たず、我々大人たちがへこたれいては浮かばれねぇものもある。
というわけで今宵は二十歳のお話です。
生と死と性と志が入り混じる
漠然とした死を連想しては儚い憧れを持ち始める年齢だと僕は思う。
憧れとは言っても「死んだらどうなるのだろうか」と考えてきた中高生の時分は終わり次の段階へ思考は進む。
「死んでしまったらどうなるか」
具体的な空想を繰り広げ、自虐的なイメージから現実のダメな自分を肯定する術をその空想の中で見つけて気持ちよくなることを覚えてしまうのも恐らくは二十歳くらいの年代だ。
そのイメージの真裏にあるのは「将来の自分」であり、「生き続けていったら幸せになれるのかどうか」といった不安を抱えながらも、
生きるのか、死ぬのか。
どちらのイメージが先行するのか、日々様々な価値観に触れ、両極端の針を揺らし続ける年代である。
性に対しても、そして志に対しても、未熟な熱のままで中身は子供なのに見てくれを大人っぽく取り繕うことで社会の様々なものから自分を守ろうとしている。
それは単純に大人たちだけで支配される現実社会が怖いからであり、同時に逃げ出したいという気持ちからでもある。
自身と過信
「最近の若い者は」
というセリフが実は何十年も前から言われ続けてきたということはメディアなどで少し流行りになりましたね。
僕も二十歳そこそこのときは大人たちが言うその言葉の意味がよくわかりませんでした。
でも徐々に自分も歳をとって、今の二十歳の人たちがどういうことを考えているのかはわからなくなってきました。
「わからなくなってきた」というのは流行りの歌だとか、流行りの喋り方だとか、そういう簡単なところから始まり考え方まで派生していったりしています。
大人たちからしてみれば「わからない」というのはもはや恐怖の対象でしかありません。
なぜなら大人たちは仕事をし、お金を稼ぎ、家庭をもって暮らしていますが、歳をおうごとに腰は重くなり新しい何かに挑戦することも、ましてや「やってみよう」と思うことも年々難しくなってきます。
そうなると考え方は固定され、脳みそなんかは仕事以外では使わないので非常に柔軟性に欠けた脳になってしまうのです。
凝り固まった頭でただでさえ「わからないもの」を理解しろと言われてもよほど寛容な人でないかぎりなかなか難しいのです。
「だからしょうがない」ではなく、少なくともこのブログを読んでいる人はそうならないように頭をやわらかく生きてみましょう。
と、偉そうなことを言っていますが、固定観念やら価値観やらどれもね、結局はただの言葉なんですよ。
「若いやつ」とか「大人」とかってくくると上記で僕が書いたことなんかは結局は妥協策であってね、交わることなんてなくてもいいと僕は思います。
若い奴も大人なんか理解しなくったっていいし、大人もいつまでも「最近の若い奴は」なんて言ってればいいんですよ。
それでお互いいつか「ああ自分もあんなときがあったなぁ」なんて気付くわけですよ。
その気付きこそがね、人生の中で平等に与えられた経験値アップのイベントなんじゃねぇかなって思います。
ここまでが前置きですね。(笑)
学生運動が盛んだった時代に二十歳で自殺した女の子がいました。
その子は好きな男の子のことを日記に書き、家族のことや友達のことで悩み、もがき、苦しんで生きてきました。
何度読み返してみても僕には普通の女の子にしか思えませんでしたが、ようやく最近「この部分でこんな風に思ってたのかな」と自分なりにその子の気持ちや心情を考えることができるようになってきました。
これから見たことないモノ、会ったことない人、行ったことのない場所、経験したことのないこと、たくさん待っていた二十歳だったのにその子は自殺しました。
日本には毎年多くの自殺者が出ていますので「だからなんだ」と言われたらそこまでですが、少なくともこの社会に足りない何かをこの自殺した女の子の手記を読んで僕は感じ取れると思います。
二十歳の原点。
みんな通るはずなのに。