死にたいと思ったことはありますか?
自ら命を絶ってしまう人が今この瞬間にもいます。
行動を起こしていないだけで死にたいと心の中で思っている人も今この瞬間に確かにいるんです。
それはあなたかもしれないし、僕かもしれない。
はたまた隣の人かもしれないし、別の町で暮らしている人かもしれない。
究極的に言ってしまうと、自分の命ですからどう扱おうとそれは本人の自由です。
精一杯に汗を流して生きるのも、自ら命を絶ってしまうのも。
人は自殺をやめなさいと言います。道徳的に?常識的に?果たしてどのようなつもりで自殺をダメだと言うのでしょうか。
世の中には、うまく生きれない人が数え切れないほどいます。
精神疾病を患った人や障害を抱えた人、何をやってもうまくいかない人、後悔をしてる人。
様々な人がいて、様々な理由で傷つき、疲れ果てているのです。
その原因は何でしょうか?
家庭環境でしょうか?金銭的な問題でしょうか?幼少期のトラウマでしょうか?生まれつきでしょうか?いじめでしょうか?
おおよそ、そのような人を知らない人は本人のせいだと切り捨てます。
切り捨てることで生半可な正論のために彼らはまた自分を責め、この時代と自分の運命に絶望していくのです。
そして、唯一の「できること」が自ら命を絶つということ。
その時、その瞬間だけは自分の明確な意思で行動を起こしているのです。
誰が責められるでしょう。
僕らはそのような生き方を肯定しません。その代わりに否定もしない。
感心を持たないという選択をした社会が彼らを自殺へと丁寧に導いているのです。
では、社会とは何か?
僕らが暮らす社会とは何でしょうか?
人の意識だと僕は思います。個々の人の意識、それ自体の集合体が巨大な社会というものを生み出しているのです。
会社や学校、果ては政府だって人の意識の集合体です。
その意識の集合体が「人と違う人」、「輪の中から弾かれた人」、「社会の大きな流れに身をおけなかった人」に対して感心を持たないという選択をしました。
その結果、毎年の自殺者は3万人をゆうに超え、予備軍を大量に生み出してしまっている始末です。
これは余談ですが、政府発表の自殺者3万人というのはそれ以上の数を政府が計上できないから毎年3万人で推移しているという話しを聞いたことがあります。
恐ろしいですね。
何が言いたいかというと、社会の中で生活をしている僕らは弱い人間を炙りだし、弾き出し、徹底的に居場所をなくすことで彼らを死においやる、言わば殺人犯と一緒です。
そういう自覚がないので、一向に社会は変わりません。
前置きが長くなりましたが、自殺の名所で東尋坊という崖があります。
そこには年間、多数の自殺者が身投げをする自殺スポットとして有名だそうです。
そこで食堂を営む老夫婦は問題を抱えた人たちに話しかけ、思いとどまるように説得します。
来る日も来る日も説得をします。
彼らは自殺者を一人も出さないように毎日そこで見回りをしているのです。
東尋坊で流れているこの曲は自殺を思い立った人たちが「死ぬこと」それ自体を思いとどまり、開き直る力を与えてくれる曲だそうです。
「くたばる喜びとっておけ」
最後に続くこの歌詞に遠い将来の「死」を喜びと表現する潔さ。
それはつまり「一度死んだものと思え」と僕は歌っている気がしてなりません。
そして、そのメッセージは確かに人々の心に届いているのです。
「なんにもないとこから、なんにもないところへと、なんにもなかったかのように、巡る命だから」
運命とはただの言葉です。社会とはただの言葉です。人生とはただの言葉なんです。
ただの言葉に傷つき、迷う必要は本当はないのかもしれません。
あなたの思うままに「生きてください」
その先に幸せが待っているなんて宗教じみたことは言いません。
少なくとも今よりマシになる程度でも僕はいいと思います。
社会なんかじゃなく、この世界にはまだまだ面白いことがたくさん待っているのだから。
くじけそうなとき、この曲を。