「普通」。
僕にとっての「普通」。
あなたにとっての「普通」。
彼や彼女にとっての「普通」。
人や国によって違うその曖昧な「普通」という言葉に日々踊らされる僕らは何をもって「普通」と定義づけていくのか。
多くの妥協点から譲れない境界線を引き、数多の「普通」から無難さが取り柄の答えを引っ張り出しては「普通」という名前を改めて付ける。
くだらなくもあり、普遍的でもあるこの言葉。
今宵はあなたの「普通」をぶっ壊すお話。
難聴のボクサー
先日、NHKの特集で「難聴のキックボクサー」のドキュメントをやっていた。
格闘技が好きな僕はたまたまそのチャンネルに合わせ数分もしないうちに見入ってしまったわけだ。
彼は20代のキックボクサー。いわずもがな格闘家の選手生命は短い。
過酷な減量に耐え、いつかチャンピオンベルトを巻くことを夢見る青年だ。
ここまでは我々が言うところの「普通」。
彼は耳が聞こえづらい。手話も使うし補聴器を付け話すこともできる。読唇術も扱える。
しかし、試合になると自分おパンチの音が聞こえない。
革製のグローブが相手の頬をかすめる鋭角な音を聞き取ることができない。
ボクサーは自分のパンチを繰り出すとき「シュッ」と軽く言う。それは自分自身の攻撃のリズムを作るためのおまじないのようなものだ。
これがあるのとないのとでは精度の違いが出てくるがそれはまた別のお話。
とにかく彼は自分が繰り出す全ての技の音が聞こえない。
聞こえないが為にクリティカルヒットを出したのか、相手にとって有効打となり得たのか、自分の攻撃は相手にダメージを与えているのか、わからない。
疑心暗鬼になりながらリングの上で闘うわけだ。もちろんセコンドの声も聞こえない。
これは並大抵の精神力では闘えないことだと思う。
もし、自分が彼の立場なら・・・・。
彼は最後にこう言った。
これが僕の普通なんです。
チャンピオンになった暁には付き合っている聴覚障害を持つ彼女にプロポーズするんだと意気込んでいた彼の目は、いや心は情熱で燃えている気がした。
キモイと言われ続けた人
世の中にはイケメンと呼ばれる部類の人がいたり、美人だと言われる人がいる。
美意識やその基準は人によってまちまちだが、概ね一般的なその感覚は誰もが共通しているものだと思う。
学生時代。
いじめというのは何も起こるべくして起こるわけではなく、なんらかの負の「きっかけ」で起こってしまうもの。
学校のなかにはカースト精度が設けられ、大人のしらないところで子供たちはその心をもって独裁精度を作ったり、殺し合ったりしている。
倫理観がどうだ道徳観がどうだと子供らに説いてみても反応が返ってこないのはおそらく子供らのほとんどがその潜在意識のなかでそれらの分別をわきまえていないからだ。
というかそれが子供だ。
昔から変わらないのは顔が特徴的なタイプ。
それを理由にいじめに発展する場合も確かにある。
いじめる側は「こいつが気持ち悪いからいじめるは普通だ」と言う。
いじめられる側は「どうしてかはわからないけれど自分が気持ち悪いからいじめられるのかもしれない」と言う。
これが彼等の普通。
くだらなくも見えるが圧倒的に現実であり、残酷な事実でもある。
大人になる過程でそのいじめられていた子は心が歪んでしまったか?
いじめた相手を恨んだか?
それともなきものとして生きてきたか?
自分に絶望してしまったか?
外見や見てくれで人を咎めたり、陥れたりするのは人間の感覚にとっては「普通」なのかもしれない。
きれい事抜きで考えれば誰にだってそういう感情はある。僕にだってある。
あたなにもきっとあるはずのその「普通」な感覚。
くだらねえ。
汚い人間であり続けることが「普通」なんだとしたら、それが非の打ち所のない「普通」なんだとしたら、なんてつまんねえ人間なんだろう。そしてくそださい人間なんだろう。
僕はナルシストでもなんでもないし、大して自分をかっこいいだなんて思わないけれども生き方、その感覚だけはかっこよくありたいと思っている。
経験を積むとその人の外見や雰囲気で汚い人間かそれに抗う人間か、そして汚さに傷つき葛藤する人間か分かるようになる。それを見てくれや外見で人を判断するということになるのなら多分僕はそれにあたる。
だけど人の顔がどうだの身体的特徴がどうだの言うことは限りなく自分を不自由にしている気がするから言わない。
そう、
ださいから言わない。
いじめられていた彼は大人になりいじめていた奴らの三倍の年収になりましたとさ。
傍観者だった僕のその後の心の葛藤はこの話とは関係ないので割愛します。
自分の話
境界性人格障害の彼女と付き合っていた。
20歳そこそこの若造が葛藤に葛藤をかさね考え方を壊しては積み上げ壊しては積み上げ・・を繰り返した。
僕には優先順位がある。
それは人生において大事な物。そしてそれらを優先する順位だ。
家族、友人、恋人。
そして夢。
義理と人情。
金。
最後に仕事。
これが後から現実と向き合うことから逃げるための口実なんじゃないかと自問自答しはじめたのはまた別のお話だが、僕は先述の彼女と付き合ってからおよそ「普通」というものを経験してこなかった気がする。
もちろん旅行にも行ったし、クリスマスも一緒に過ごした。
誕生日も祝いあって、お互いの両親に挨拶も行き、同棲もした。
彼女の心が壊れてからは「普通」が「普通」ではなくなった。
価値観も崩れ、心が繋がらなくなったときもあった。
健康な心なら・・・と何度も嘆く自分が汚く思えた。
「普通」に暮らせたら・・・そう願う自分の無力さを恥じた。
「普通」ってなんなんだ。
「普通」ってどうなってんだ。
自分にとっての「普通」は相手にとって「普通」ではないのかもしれない。
てめえにとっての「普通」はあいつにとっての爆弾なのかもしれない。
普通じゃない
ということを日々考えていたわけなんですけれどもね、今日観た映画の最後のフレーズに久しぶりに心がしびれました。
ときめいたという表現の方があっているのかもしれない。
難聴のボクサーが試合に勝てば、同じ難聴の人に勇気を与えられる。
難聴のボクサーが「普通」ではないから人に勇気を与えられる立場に立っている。
きもいと言われ続けた人がいじめに耐え抜いたから例え心が歪んでしまったとしてもその後の人生の可能性を見いだせる。人に出会い、涙を流し、感動するきっかけに出会う可能性を広げられる。
きもいと言われ続けた人が「普通」ではなかったから、他の誰かがいじめられなくて済んだかもしれない。
境界性人格障害の彼女をもったから僕は人の気持ちを考えるようになった。
境界性人格障害の彼女が「普通」ではなかったから僕は今の自分に多少なりとも誇りを持てる。
つまりこうだ。
あなたが普通ではないから世界はこんなにも素晴らしい
あとがき
普通って曖昧な言葉です。これに惑わされれば大事なものを次から次へとなくしていきます。
「普通」っていうのはただの言葉。
「普通」じゃない人は誰かにとって今日もヒーローであり続ける。